福岡基本学習セミナー 志成館

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館長の社会論 科学への信頼と神の克服

科学への信頼と宗教の克服の必要性

中学の歴史の教科書で学んだように、現代の西欧を中心とする人間社会は、ルネサンスというムーブメントが、それまでの西洋における思想上そして人間そのものに対する絶対的な支配者であった「聖書」の記述内容そしてそれを行使する「教会」の力を人々が乗り越えたことに始まります。神ではなく「人」を信じ始めた時から新しい歴史が動き始めました。美術や芸術を信じ(ルネサンスは主にこの部分を指します)人間が思考する科学を信じ(地動説や地理上の発見など)、人々の素朴な不平等感や不自由な感情を抑える聖書の内容を、それも不当にゆがめてまでも利用して人々を支配してきた教会や神父への批判という形での(宗教改革と呼ばれるもの)主に3つの内容として中学校で学んだことです。

このルネサンス以降は、宗教が世界や時代の支配者であることが乗り越えられ、そして歴史の主役は全て「人間」だということになり、神は人間の後ろに下がることとなりました。

この傾向は今日まで続いており、これが変わることはありえないでしょう。確かに時代は数限りのない争いが続き、世界的な病変や気候不順もあり、「神」の力を求める傾向があり、今でもアメリカのティーパーティーのようなキリスト教保守派やイスラム原理主義者などの「神」に救いを求める組織が世界にも日本にもたくさんあります。しかし英語のことわざで学んだように

❝Heaven Helps Those Who Help Themselves❞ なのです。

日本語訳は「天は自らを助ける者を助ける」対応する日本語のことわざは「棚から牡丹餅は落ちてこない」というものです。文字通り「神は誰も助けてくれない。自分で努力する人には幸運が舞い込むが、それを神のおかげだと思ってくれたら有り難い」ということわざです。欧米にも日本にも、諺を理解するだけでも神はいないことがわかるはずです。

世界一有名な実存主義哲学者F・ニーチェの❝God is dead❞も同じことを言っているのです。

しかしこのことが理解されるまで膨大な時間がかかり多くの人間の血が流れました。現在もイスラム原理主義者の自爆テロ行為はまだ「神」の存在があると信じる人々の悲劇的な行いですし、戦前の日本でも「神風」を信じ、ないし無理やり信じさせられて「特攻隊」として死んでいった若者がいたのも最近の事なのです。

「神」と付き合うのが悪いとは思いません。多神教の日本の農民の家に育った私の家には神棚がたくさんあり、今も榊や燈明やお神酒などを上げ続けており、1年に3度は京都の伏見のお稲荷さんにお参りをしているくらいなのですから。しかし神を信じてはいけません。信じたくても信じてはいけないのです。神を信じると、人間より上位に神が存在することになります。このことは人間の理性を支配する何かの存在を認めることとなります。いったんこれを認めると、どんなに不合理と思えてもこの「神=至高の存在」の意思に逆らうことが許されなくなるからです。かつての日本の「オウム真理教事件」を調べてください。狂信がいかに恐ろしい結果を導くことかを。今のイスラム教徒の狂気のテロリストのことを考えてください。

そもそも歴史を子細に考察してみるとわかることなのですが、ブッダ(お釈迦ざま)もキリストさんもムハンマドさんももともとは神などではなく、時代の変革のために立ち上がった「革命家」なのです。

のちの人が神に祭り上げただけの話で、民主主義や主権という概念がなかった時代に、人々の不幸や貧困や人々への弾圧に抵抗し、人々を引っ張っていった素晴らしい革命家たちなのです。平安末期から鎌倉時代にかけての仏教指導者である法然親鸞一遍日蓮も日本の歴史の中では革命家であり思想家なのであります。だから今日まで深い信頼乃至信仰の対象となっているのです。親鸞の「悪人正機説」などは今の思想体系に比して、もとても思いやりがある最新の思想に劣るところがない素晴らしい思想であるという解釈も可能なのです。キリストも自分が死んだあと、いつの間にか権力に利用されキリストが救おうとした人々を弾圧してきたという事実をあの世で知ったら、かんかんに怒るだろうと思いませんか。

ここで森館長のとっておきの話を挿入します。それは空海=弘法大使についての話で、すべての志成館の生徒に話してきたことです。それは次のようなものです。

「空海は遣唐使の船で唐にわたり仏教を学んだあと、真言宗という密教を人々に広めていったのですが、密教だから山を登り、谷を下り、滝に打たれ、火の上を歩くなどという厳しい修行を求めており、とんでもない宗教と考える人がいると思います。しかし彼の開いた八十八か所という修験場に行ってみてください。四国八十八か所でも西国八十八か所でもそして身近な福岡県篠栗の八十八か所でもかまいません。どんなところかわかりますか?ほとんどの札所は景色が素晴らしい場所にあり、水はおいしく木々は新緑の緑や秋の紅葉の美しいところにあるのです。そうです、のちの江戸時代のお伊勢参りや出羽三山へのお参りのように、生きて生まれて死ぬまでの人生で、何の楽しみも感動もない人々を、一生に一度だけ楽しい旅行でもさせようかという意志で八十八か所の札所を設けてお参りをさせた」というものです。

大学生になりかけのころ友達からこの話を聞いて、これまで空海さんや最澄さんを尊敬し続けています。このような話は「文化人類学」の範疇に入ります。このようなことからも彼らは神ではない素晴らしい人間の指導者であることが理解できると思います。
欠陥だらけで、わがままで、とても怖い暴力を振るう、どうしようもない存在であると思っても、「人間」を信じるしか方法はないのです。「自分たちの力で」世の中を住みやすくし、差別にない公平な社会にし、平和を守り、環境を守り、世界中の人たちが等しく衣食住に困らない社会をつくるしか方法はないのです。

そもそも『神にすべてを任せること、「すべて神のおぼしめし」として信仰を深く受け入れることは、自分のすべての不行跡(悪い行いや恥ずべきこと)や怠惰(怠け者であること)無知や無教養(学ぶことをしない人々)を 「神への丸投げ」をすることによって、自分のしてきた行為の責任を自分でとらないで、神に責任を取ってもらうことと同じである』と言われることがあります。少し厳しすぎますがいかがでしょうか。
さて「神」に頼ろうという気持ちはなくなったかな。それではここで、神父でありながら、神を乗り越えるべきことを証明し、今でもキリスト教原理主義者などに背信者として嫌われている「種の起源」チャールズ・ダーウィン「優勢の法則」を発見したグレゴール・メンデルそしてチャールズ・ダーウィンの後継者であり遺伝学の世界的権威者である、リチャード・ドーキンススティーブン・グールドの二人のうちのリチャード・ドーキンスを紹介したいと思います。

これらの本を読んでまず人間の起源を知り、人間を好きになってください。そして人間が膨大な時間をかけて理解した「科学」を信じる人間になってください。(下掲)

リチャード・ドーキンスの「悪魔に仕える牧師」

リチャード・ドーキンスは現代の遺伝学の最高権威者の一人であり、学問上のライバルであるスティーブン・グールドと並んで、遺伝学の分野では世界でも最も人気のある人物であり、科学啓蒙家として右にでる者がいないほどの人物です。彼は「人間は人文科学、社会科学、自然科学を含めて科学を信じるしかないのであり、宗教や伝統や権威など非科学的なものを信じてはいけない」強烈な確信の持ち主です。ですから彼が今日の西洋のキリスト教の世界でも西アジアのイスラム教徒にもみんなに広く受け入れられることはないでしょう。さらに今日のように「お金にならないような学問は無駄であり、真実を学ぼうとしないような時代=文部科学省の大学カリキュラムに関する方針と同じ」ではどこの国でも同じなのかもしれません。しかし私のような「人々の幸せのために真実を求めよう」とする人間にとっては、とても誠実な人物に見えます。名前だけでは知っておいてください。

ドーキンスのこの本の表題「悪魔に仕える牧師」とは、チャールズ・ダーウィンのことです。彼は「進化論」を発見したあと、このような「神=イエスキリストを冒涜する事になる理論」を発表してもよいのかと悩んでいるとき、自分がこのように罵られることをおそれていました。彼は進化論のなかではあまり人間について露骨な表現はしておりませんが、その後の「後継者が彼の理論を展開していきます。」

これらの本の内容から2点紹介いたします。

①性淘汰説と人種の平等 ・・・人種差別が「科学的な根拠がない不当な考え」であることを理解してください
自然淘汰説の中の「性淘汰説」がとてもおもしろいです。彼らの理論は、人種差別が常識であった植民地支配時代のイギリスで、「黒人、白人、黄色は全く同じ人種であり、強い子供を産むための男を選別できる女が人種を決定したのであり、人種を差別する根拠などどこにもない」と展開されていきます。
たとえば黒人は熱帯で生活するから冷却効果上「が低くて上を向いて開き」白人は寒い中で冷たい空気が徐々に鼻から吸収されるよう「筋が通った美形になったなど」が書いてあり、鼻の形が良くない私の先祖は熱帯帯系なのかと妙に納得しております。また現代の遺伝子工学や同性婚などの問題について遺伝学的な見地からもとっても詳しく記述してあります。

②「娘のための祈り」  ・・・社会の偏見や伝統とされる固定観念を乗り越えることがいかに大変なことであるかを、愛する娘に送った伝言です
リチャード・ドーキンスが10歳になる娘に当てた有名な公開の手紙があります。その内容は「伝統・権威・お告げを絶対に信じるな」というもので、科学的な思考をするために必要な心構えが書いてあります。この優しくて同時に迫力ある文章は、本気で真実を追求しようとするなら、とても説得力があると思いました。→この本の429ページからの部分です。ぜひ読んでみてください。
※遺伝学は哲学的にも科学的にも宗教学的にもとても重要な学問分野ですので、いくつかの本も同時に表紙を載せておきますので、興味がある方は読んでください。

以下、宗教に関する知識を把握するために、館長所有の本を貼り付けます。私が宗教をそれなりに尊敬し、むやみに神を否定しているわけではないことをわかっていただけたら幸いです。

尚、どのような宗教をどのように信仰するかは「信仰の問題」であり、ここでは「学問」としての「宗教学」という視点からの書籍の紹介をしていますので誤解がないように。

1)もっとも歴史が古い仏教は、とても温厚な宗教のように思えます。ビートルズがかつてインドのサイババという和尚さんに心酔したように、欧米に知識人で仏教に帰依している人はとても多いです

2)イスラム教はテロリストが目立つのでひどい宗教のように思われますが、実はとても思いやりのある宗教なのです。「君のものは僕のもの、僕のものは君のもの」といった共産主義的な思いやりの気持ちに溢れ、ある意味では「私有財産を否定するかのような宗教」なので、富の保持と私有財産を最優先するキリスト教徒、特にプロテスタントの信者の中でも強欲な人は許せない宗教なのでしょう。

3)コーランと旧約聖書の初めの部分は同じ内容なので、「憎しみ合うこともないのに」と私が思うのは仏教国であり神道国である日本育ちだからかもしれませんが。ある種の「近親憎悪」なのでしょう。

4)仏教になじんでいる人もこれらの宗教の本を一度くらいは読んでみませんか。ストーリー性もとても面白いです。ちなみにヨーロッパで働こうとする知識人は、「聖書」と「シェークスピア」を読んでいないとまともな人間とはみなしてくれません。そのことはアメリカのクライムサスペンスなどを見ているとよくわかると思います。

5)ユダヤ教やヒンズー教やインドのタタという会社のことでも有名なゾロアスター教などたくさんの宗教があり、私にはどの宗教も魅力的に思えます。だからあれだけの数の信者がいるのです。

6)天理教などの比較的新しい日本の宗教もとても魅力的です。幸福の科学も社会科学を宗教と一体化しようとするもので、考えていることはとても分かりやすいです。創価学会はアメリカの教会の方式を模範にした、会員相互の助け合いを大切にする宗教だからあれだけの信者がいるのだと私は考えています。

7)私は百姓なので浄土真宗です。ただとびっきりの不真面目な信者だと自覚はしています。(笑)。

私は無神論者です。「先生」をしている以上は無神論者でないと資格がないと本気で考えていますが。ただ私が無神論者になった理由は以下の通りです。

「神も仏もない」・・・広島や長崎の悲劇から71年たって(「幸せになれる思考方法」から)

原子爆弾が日本に落とされて今年で71年になる。被爆者の受けた悲しみ苦しみは言葉にできないほど悲惨なものであり、その苦しみは今も続いている。他方でそれから少したって生まれた館長はそのような被害に遭うことは一度もなく、平和にそして物質的には恵まれた生活をして現在まで幸せに生きてきた。父母も長生きしその愛情に守られてとても恵まれた贅沢な人生を過ごしてきた。およそ立派な人間とは程遠い館長が、こんなに幸せな人生(といっても人並みの苦労と悲しみは当然してきているから誤解がないように)を遅らせてくれたことについては神に感謝するしか方法がないといつも感謝している。仏壇や神棚にはいつも頭を下げ、できるだけ花や供え物をするように心がけている。

しかし世の中には「神も仏もない」という言葉がある。ひどい災難が続いて、なに一つ幸運がやってこないという嘆きの言葉である。広島や長崎の被爆者に限らず、これまでの歴史的事件や現在起こっている世界中の悲劇を見ると、「神はなんと薄情で冷たい存在でひどい差別をするのか!!」と感じざるを得なくなる。日本だけでも水俣病などの公害の被害者、沖縄戦の被害者と今の沖縄の人々、この前の地震の被害者とそれによる東電の原子力発電所の放射能漏れの被害者など数え上げれば私の能力でも数冊の本ができるくらいである。私自身が過ごした幸せな時代幸せな日々と比べると、「神や仏は人々に対してなんと不公平なことをするのであろうか!! 何という差別をするのだろうか!! 」と強く感じてしまう。

このような理由から館長は神や仏を信じることはなくなった。ずっと昔の若い頃の学生時代のことである。ちなみに父母は死ぬその日まで熱心な神や仏の深い信者だったが。

それ以来「いかなる人類の悲劇の解決も、ブッダやキリストやムハンマドなど、神や仏のような他力に頼り、手を合わせ、参拝をし、十字を切り、地面にひれ伏せるのではなく、欠陥だらけではあるが多くの長所を持つ個々の人間が学び、努力してこのような悲劇をなくすしかない、人間を信じて行動するしか悲劇を解決する方法はない」と思い続けている。

終わることもない長い人類の戦いであろうと思う。生きている人間の宿命であるとも思う。「すべての人類は、生きている以上、世界中のすべての人々がわけへだてなく幸せに、そして平和にそして豊かに過ごせるような時代が来るまで努力し戦い続ける責任がある」と強く思う。そうする事で「人間には神や仏を越える責任がある」と思うがどうだろうか。

2016年 夏 志成館

※ついでになるが、人間の本質について「性善説」と「性悪説」がある。学問的な意味でなくて、人間の奥底をどのように見るかという意味で。性悪説をとるものは愚か者であると私は断言する。なぜならもし人間の本性が「悪」つまり非人間的なものであるのなら、今の時代すなわち「核兵器の時代に人類がまだ生存しているわけがない」と考えるからである。

※ あなたの心の中にある優しさを素直に認めたうえで、人類には可能性が無限にあることを受け入れようではないか。   

「イスラム教」について述べた最近の文章がありましたのでここに貼り付けます。

「イスラム教ではイエス・キリストも神の子ではなく予言者の一人にすぎず、ムハンマドが最後の予言者であると理解しています。」このようにムハンマドさんの方がキリストさんよりも偉いかのようなうようなこの部分に、イエス・キリストは神であるとするキリスト教徒がイスラム教徒を許せない最大の原因があるのだということは気持ちとしてはよく理解できます。文化的に遅れた地域のムスリム=イスラム教徒がイエスさんを信じる西洋人よりも偉いなどとはとても許せないみたいなのです。

ずいぶん昔のことですが、私の近くの建設会社の社長が「日本に働きに来ているアラブの労働者が、経営者の所有物を勝手に使い、他人のものを平気で食べるので困ってしまう」と話されていた時、どうしてかと聞くと、彼らは「食料は神が恵んでくれたみんなのものであり、食べ物がない人がいたらみんなで分けて当然であると言うのだ」と聞いたことがあります。そのときにふと感じました。民主主義も未熟で国家のシステムも法体系も未熟なイスラム世界ではあるが、人間としてのありかたの根底部分では、もしかしたら共生を最優先するイスラム教の教えはキリスト教の教えよりも遙かに慈悲深く、むしろ仏教思想に近いのではないのか、そしてフランス人が考えだしドイツ人が理論化したとされるコミュニズム的な発想も何ら目新しいものではなく、貧しいイスラムの民の昔からの教えそのものなのではないかということを。あたかも西洋の実存主義哲学が東洋の老荘思想の模倣であると直感する人がたくさんいるように、遠く隔たったもののシンクロニシティーを。そう思うと同時に、これでは私有財産制を前提とする西洋の資本主義社会を守るためにはイスラム教徒の考えを西洋文化が許すはずがない、どんなことがあっても西洋文化は上記のキリストの位置づけに対する怒りとともに、ムスリムの思想を近代化=西洋化するかまたはムスリムを纖滅するまで戦いは終わらないだろうと直感しました。つまり資本主義ないし私有財産制を守ろうという戦いの方が実は宗教上の戦いよりも重大ではないのかという発想です。このような私の考えは無知と偏見によるものかもしれません。

いずれにしても、異文化の人たちが共生できる政治や経済、社会システムを構築することが世界平和への共通の課題であり先進諸国の責務であることはご理解いただけると思います。そしてイスラムの教えを信じる人たちは、まさしく仏教を信じる日本人みたいに、とても慈悲深いところがあること、そして本来どのような宗教にも寛容であったことがわかっていただけたらありがたいと思っています。「イスラム」について少しでも興味がおありでしたら、【下左】の本をお読みになられることを切に希望いたします。今後の世界平和へのかすかな光明が見えてくると森は考えています。

「イスラムの怒り」一橋大学大学院教授 内藤正典 <集英社新書> ¥700

(※【右】の2冊のアンリ・ルソーの絵が使われている表紙の2冊は、歴史を非西洋から見たエドワード・サイードの名著「文化と帝国主義(上)(下)」です。画家のルソーも先進国による後進国へのひどい仕打ちに辟易していた画家のひとりであり、そのことから編集者はサイードの本の表紙にルソーを使ったようです。)

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」

(ルカ伝23-34)
上の言葉は新約聖書のルカ伝23-34に書いてある、イエス・キリストがはりつけにされる前に弟子に語ったとされる言葉です。各種の文学作品や映画やドラマなどでしばしば引用される有名な言葉です。

この言葉を広く解釈すれば、人間が人間とも思えないような戦争やテロなどのむごいことをするのは、それをしている自分の行為が、自分から進んでしたものであれ他者たとえば国家や軍部から強制されたものであれ、

「自分している行為が間違っている」ということが理解できない「無知(=人としての愚かさ)」が原因となって生じるものである」ということになります。実はこのことは会社や学校でのいじめにも共通します。いじめをする人間は無知な愚か者と決めつけてもよいと思います。ただ今の強欲な資本主義社会で政府や企業の組織の下部にいる人は、職が奪われないように仕方なくいじめをさせられていることもわかってはいますが。

学ぶのです、学び続けるのです、命が尽きる時まで。そして真実を求め続け、真実をもとにした行動をとるのです。そして世界中に戦争やテロがなくいじめもない時代をつくるのです。国家や会社や学校での争いやいじめなどがなぜ起こるかを学び、そしてそれがなくなるまで戦うのです。これがキリストのメッセージなのです。

私はキリスト教の信者ではありませんがこの教えは簡単に理解できます。実はほかの宗教も同じような立派なことを沢山言っており、宗教によっての教えの差はあまりないと考えています。だって世界中に住んでいるのは、みんな本質的には優しい心を持った人間なのですし、教えを説いているとされる神も実は同じ人間なのですから。(映画「ダビンチ・コード」のテーマもこれです)

貧富の差をなくし、戦争やテロの脅威をなくせるのは「神」ではありません。
君たち一人一人の「人間」による努力なのです。
「聖書」はイエス・キリストの言葉を通じて君たちにそのことを伝えたいのです。

2016年 秋 志成館
人間が神の贈り物ではなく、「自然」の贈り物であることがわかったら、

次の項目では

その人間をつくった「自然」そして大きく「宇宙」について学ぶ方法を示したいと思います。

「自然科学」の大系の把握です。